最終電車

一

　駅の構内に入った時、空にはまだ星が瞬いていた。
　朝早いこともあって人気はない。ただ一人、少年が椅子に座っているだけだ。
　白い長袖シャツと紺のジーンズという、季節外れの服を着ている。彼はいつもこの格好だ。
「おはよう」
　彼は微笑みを浮かべ、僕にそう言った。僕は挨拶を返す代わりに軽く手を振り、彼の隣に座った。
　ぼんやり、風景を眺める。電車が通る広く深い溝がぽっかりと口を開けている。その向こうには、人が住んでいるかどうかも分からない古い団地が、ひっそりと夜明けの薄闇の中に溶けこんで立っている。
　僕と彼の間を冷たい風が通り過ぎる。
「後何分？」
　彼が尋ねた。そんなの、時計を見なくたってわかる。
「十分」
　そうか、と彼は呟く。そして周りを見回した。
「誰も、いないね」
「ああ」
「皆、まだ寝てるかな」
「ああ」
「昨日プレイしたゲーム、面白かったね」
「ああ……」
　適当に返事をしているわけじゃない。もう、「ああ」くらいしか言える言葉がないのだ。
「後、何分？」
「八分だ」
「時間が経つの、遅いね。じれったいよ」
「ああ」
「遺書は書いてきた？」
　今度は首を横に振る。
「いや、何も書いてない。残す言葉なんかもうない」
「そっか。僕も書いてないよ」
　彼は白い息を吐き、仄かに明るくなった空を見上げた。

　もうすぐ、電車がやってくる。それは今日の始発電車。でも僕らにとっては最終電車。
　後数分で、僕と彼の、さよならの時間がやってくる。
　僕は今までのことをゆっくりと思い返す。
　彼との、長いようで短い日々の思い出を。

二

　僕が初めて彼の姿を見たのは、ある暑い日の放課後、非常階段の下でうたた寝をしている時だった。
　足音が聞こえ、目を覚ますと、彼が前を歩いていたのだ。
　彼は酷い格好だった。制服のシャツは破れ、ズボンには絵の具が飛び散っていた。上履きは履いていなかった。両手にこれまた汚い体操服を抱えていた。
　彼は僕の方には目もくれず、階段の横にある水道で体操服を洗い始めた。何とはなしに、その様子を僕は見ていた。その手つきは随分慣れていた。
……そうだ、あいつ、いじめられているんだった。
　僕がその事実を思いだしたのは、彼が水道の前から去ってたっぷり五分は経った頃だった。
　その後も彼はよく階段の横にやってきた。何を洗うのかは日によって違った。体操服の時もあれば制服のシャツやズボンの時もあるし、上履きやスニーカーの時もあった。でも、どんなものを洗っていようが、僕も彼も互いに話しかけるようなことはしなかった。

　だけどその日は少し違った。
　彼は切羽詰まった顔で階段の前までやってきた。いつもに増して酷い格好だった。どんな液体をかけられたのか、制服から酷い臭いがした。顔にできたばかりの切り傷があった。歩き方もおかしかった。
　彼は怯えた顔でしきりに背後を気にしていた。
　僕は咄嗟に、自分の横の空間を指差した。
「ここに隠れろ」
　彼は「いや」と別の方へ駆けだそうとしたが、彼の名前を呼ぶ汚い声が聞こえた瞬間、すぐに階段の下に入った。僕は近くのゴミ置場からダンボールの束をとって来て、彼の前に衝立代わりに置いた。そして素知らぬ顔で膝の上に本を開いて視線を落とす。何も知らない人だったら、男子生徒がダンボールのゴミ出しをサボっているようにしか見えないに違いなかった。
　僕の作戦は成功した。薄ら寒い笑みを浮かべた、数人の生徒がやってきた。彼らは階段の下に目を向けることもなく、心底楽しそうに彼の名前を呼びながら、どこかへ走っていった。

　足音も声も聞こえなくなると、僕はダンボールを横にずらした。彼が這いでてくる。
「ありがとう」
　言葉とは裏腹に、彼の目は警戒の色を帯びていた。だが急に苦しそうな表情に変わり、その場にうずくまって膝をおさえた。
「怪我しているのか？　氷か包帯、もらってこようか？」
「いらない」
「じゃあ、ここでしばらく休むか？」
　彼は何も言わなかったが、足をかばいながら僕の横に座った。しばらくの間、地面の苔を見ていたが、やがて口を開いた。
「何で匿った？」
「別に。何となく」
　そう。ただの気まぐれだった。
「ふーん……。いつもここで何をしてるの？」
「時間が経つのを待ってる」
「時間って、何の時間？」
「この時間だよ。まだ家に入れないんだ」
「何で？」
「母さんが怒るから」
「お父さんは？」
「いない」
　彼は僕の首をちらりと見た。正確に言うと、僕の首についた痣を。
「その痣、どうしたんだ？」
「どうもしない。何でもない」
「……そうか。痛いの、大分マシになった。もう行くよ」
「ああ」
　それから、彼は階段の下に何度もやってきた。僕らは短い言葉を交わした。「元気？」「まあまあ」とか。
　しかし、次第に会話の時間は長くなり、そのうち階段以外の場所でも会うようになった。誰もいない夜中の公園や早朝の遊歩道で。
　外で会う時、僕らは互いに必要なものを用意する。
「これ、今日の分のノート」
　僕が準備するのはノートだ。彼のノートはほとんどクラスの連中に破られたので、僕が見せていた。
「ありがと」
　彼はカバンからコンビニの袋を出し、僕に渡した。
「ツナサンドだよ」
「どーも。助かる」
　僕はサンドウィッチをぱくつく。食事と呼べる食事は、給食以外だとこれだけだった。
　彼はスマホを出してノートを写真に撮り始めた。
「そうそう。マークしてるとこ、テストに出るって」
「そうなんだ。参考にするよ」
　僕らは並んで冷たいベンチに座った。
「今日は君のお母さん、帰ってきたの？」
「帰ってきた。四日ぶり。普段は一日か二日だけどさ。お前から借りてた漫画を慌てて隠したぞ。あれ面白いな」
「うん。アニメ化間違いなしだよ」
　誰にも邪魔されない場所で、僕らは漫画の話題で盛りあがった。
　彼と話している間だけは、ほんの少しだけ毎日がマシに思えたのだった。

　ある秋の日の放課後。
　いつもの通り、非常階段で待っていると彼がやってきた。
　お疲れ、と言おうとして僕の口は固まった。
「か、顔、どうしたんだ？　ヤベエことになってんぞ」
　彼の右頬は赤く腫れあがっていた。
「小遣いがなくてさ。ちょっと酷くやられた」
　そう言った瞬間、ヒッと悲鳴をあげて頬を抑えた。喋るのもしんどいようだ。
「早く帰って病院に行け」
「無理だよ。この後塾がある」
「塾？　サボれよ、そんなの」
　彼は首を横に振った。
「この前のテストの結果、酷かったし。勉強しないとヤバい」
「……お前、高校行くのか」
　彼はキョトンとした。
「い、行くけど。君は行かないの？」
「うちには高校へ行く金なんかない」
「……そうなんだ」
　その言い方に、何故か分からないが、僕はカチンときた。
「何だよそれ。高校行かないのは変だって？」
「え、違う違う。ちょっと驚いただけだよ」
「やっぱり変だって思ってるじゃねえか！」
　自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。
「お前も本当は僕をバカだって思ってるんだろ！」
「違う！　落ち着け！」
　彼が怒鳴った。僕はようやく我に返った。
「そんなこと思ってない！　何でそんなこと言うんだよ！」
　彼は怒っていた。目尻を釣り上げて僕を見ていた。
「……ごめん」
　僕は自分のかばんを肩にかけ、非常階段の下から素早く出た。
「おい、どこへ行くんだよ！」
「……帰る」
「はあ？　ちょっと待てよ！」
「また明日」
　僕は振りかえらず校門へ走りだした。門を抜けた後も走りつづけた。走って走って走った。とにかく彼から少しでも遠くに逃げたかった。

　夕暮れの中、誰もいない住宅街を当て所なく歩く。
　彼の声が脳内でずっと反響していた。
　彼が怒るとは思わなかった。
　今まで何をされても……クラスメイトに暴言を吐かれても、ノートを破られても、金をゆすられても、笑っていた彼が、まさかあんなに怒るとは全く想像していなかった。
　何故怒ったのだろうか。いくら理由を考えても分からない。
　そもそも怒った原因は何だったのだろう。僕の言葉だ。じゃあ僕はどうしてあんなことを言ったんだ？　彼の何にキレてあんなことを言ったんだ？
全てがあっという間に起きてしまった。一瞬過ぎて、何も理解できなかった。
　気がつくと、住んでいるアパートの前まで来ていた。まだ空は明るく、普段なら帰る時間じゃなかったが、その時は疲れきっていた。ゆっくりと階段を上った。
　そこで、僕は足を止めた。
　廊下の端で、汚れた服を着た母がいびきをかいて眠っていた。近寄るとぷんと酒の臭いが鼻をついた。
「母さん、起きて。風邪引くぞ」
　肩を揺すると、母はうめき声をあげた。
「何だい、お前」
「部屋に入ろう、母さん」
「ああ？」
　母は僕の手を叩いた。
「それが親に対する態度か？　偉そうなこと言いやがって！」
「何でもない。ドアを開けるから、早く入って」
「うるせえ、クズ！」
　外にいるにも拘らず、大声をあげる母。まだ酒が抜けきっていないようだった。僕は時間をかけてどうにか母をなだめすかし、中に入れた。
「邪魔だバカ」
　母は冷蔵庫を開け、缶ビールを取りだし、グビグビと飲んだ。
　そして怒鳴り始めた。お前はバカだクズだ出来損ないだ──。
　ぼんやり聞きながら、僕は思った。
　とうの昔から、分かっていた。
　僕には未来などないことを。
　彼や他の人のように高校に進んだりできない。働いても金は全て酒に消えるだろう。
　母の罵倒は止む気配がなかった。

　次の日、僕は彼がもう来ないかもしれないと思いつつ、階段の下に座っていた。
　だけど彼はいつものようにやってきて、いつものように「やあ」と言った。僕は胸をなでおろした。
「お疲れ。顔、少しマシになったな。親には何にも言われなかったのか？」
「帰りに転んだっていうことにしたよ」
　そこで会話は止まった。階段の下を沈黙が支配し、嫌でも昨日のことを思いだしてしまった。
「昨日は悪かった」
　僕は素直に謝った。彼は微笑みを浮かべた。
「別に。もういいよ」
「……あのさ、どこの高校行くんだ？」
「一応、第一志望は県立」
「え？　すげえ良いとこじゃん！」
「無理だよ。このままだとＡ高になりそう」
「Ａ高も十分いいだろ」
「親は県立じゃないと駄目だって。それにＡ高は、あいつらも行くし」
あいつら。彼をいじめている奴らのことだ。
「そうか。なら勉強するしかないな。応援するぞ」
「頑張るよ。ところで、君は？　卒業したらどうするの？」
「さあな。分からん」
「なんだそれ」
　彼はムッと顔をしかめた。
「嘘じゃない。本当に分からないんだ。働くことになるだろうけど……」
　僕の未来に対する想像は来年の三月でプツリと切れている。
「母さんみたいに酒ばっかり飲んで、どこかの路地裏で死んでいるかもな」
　僕は笑いながら冗談を言った。でもこの冗談が一番しっくりきた。簡単に想像できた。
「それはないでしょ」
　彼は苦い顔をしていた。
「まあ、お前は勉強頑張れ。卒業したらまた会おう」
「うん。頑張るよ」
　彼はこくりと頷いた。
　そして、それから程なくして、彼は階段の下に来なくなった。何でも親に塾の時間を増やされたらしい。時間ができたらまた来るから、と彼は言い残して去った。また一人何もせず過ごす日々に逆戻りだ。
　だけど、以前と違うことが一つだけあった。
　それは眠れなくなったことだ。彼と会う前はよく昼寝していた。しかし彼が来なくなってからは眠るのが怖くなった。目を閉じる度に訪れる暗闇に、自分の未来が見えた気がして、何度も叫びそうになった。
　最後にちゃんと寝た日がいつなのか、分からなくなった。

　十二月の終業式が終わっても、僕は相変わらず非常階段の下にいた。
「やあ、久しぶり」
　顔をあげた。彼が立っていた。
「よお」
　僕は片手を上げた。
「あー……お前、随分痩せたなお前」
　最後に会った時より、彼の体型は一回り小さくなっていた。頬はこけ、肌が青白い。
「きみこそ、ひどい顔してるよ。睡眠不足？」
「こうも寒くちゃ昼寝もできないからな」
　昼だけではなかった。この頃は、夜も眠れなくなっていた。
　僕は隣に身体をずらし、彼のスペースを空けた。彼はそこに座り、しばらくの間宙を見つめていた。
　見た目の変化といい、何かあったに違いなかった。下手に声をかけちゃまずいと思って、僕は静かにしていた。
長い沈黙の後、ようやく彼は口を開いた。
「僕、もう駄目かもしれない」
「何で？」
「模試、判定がＥだった。期末テストも全然できなかった。過去問も解けない。とてもじゃないけど県立は無理だ」
　彼は身体を縮こめて震えていた。
「あいつらと同じ高校なんか嫌だ。でもランクを下げるのは父さんが許してくれない。もうどうしようもない……」
　後半は泣き声混じりで、ほとんど何を言っているのか分からなかった。
「もう嫌だ。何もかも全部嫌だ。消えたい」
　消えたい。僕の心臓がどくりと大きく動いた。
「死のう」
　僕は言った。
「え？」
　彼は弾かれたように顔を上げ、赤い目で僕を見た。涙がキラキラと光っていた。
「──って言ったらどうする？」
「あのさ、意味が分からないよ。君、死ぬの？」
「よく思うんだ。卒業した先の行き場がない僕に、未来は来ない。だったら、今自分の意志で終わらそうって。君はどう思う？　死んでしまいたい？」
　彼は長い間無表情で考えていた。やがて、ふっと微笑んだ。それは今にも泣きだしそうな、不思議な笑顔だった。
「そうだね。もう終わりにしよう」
「どうせなら、一緒に死のう」
「うん、そうしよう」
　そこからは早かった。
　時間は次の日曜日。場所は学校から少し離れた小さな無人駅。そこで僕らは始発電車に飛びこむのだ。

三

　不意に踏切の音が聞こえてきた。
　走馬灯のように鮮やかな思い出から引き離され、僕の意識は灰色のプラットホームに戻ってきた。
「来たね」
　僕らは黄色い線の前に立つ。
　線路の先に、丸い光が二つ見えた。電車のヘッドライトだ。
「ねえ」
　彼が叫んだ。僕は彼を見る。彼は右手を差しだしている。
「ありがとう」
　僕は涙をこらえ、その手を握る。
「こちらこそ、ありがとう」
　そしてすぐに手を離し、前を見る。
　けたたましい音を立てて電車がホームに入ってくる。僕は一言だけ呟く。

「──君と友達になれて、良かった」

　その言葉は自分の耳にも届かなかった。
　ただ、電車の轟音だけが聞こえた。

　電車が止まる。
「ホームとの間が広く空いています。足元にご注意ください……」
　アナウンスが流れ、僕の前で電車のドアが開く。
　僕は先ほど握手した右手で、スーツケースの取っ手を持ち、電車の中に入った。電車は何事もなかったかのように、動きだす。
　電車の運転手には見えなかっただろう。
　たった今、彼がまた、電車の前に飛びこんだ光景など。

　四年前のあの日。
　僕は一歩を踏みだせなかった。
　理由は単純。あまりに大きかった電車の音に怯えて足が一瞬止まってしまったのだ。
　しかしその一瞬の間に彼は飛びこんだ。ブレーキ音に混じって、彼がはねられる音が、確かに聞こえた。今も耳の奥で反響している。
　電車は緊急停止し、すぐにたくさんの駅員と警察、救急の人がやって来た。
　僕は色んな人に事情を聞かれた。色んな大人が僕から話を聞きだそうとした。でも話さなかった。話すことなんか何もなかった。
　それより、彼のあとを追いたかった。一刻も早く、彼と同じ場所へ行きたかった。
　いくつもの大人の目をかいくぐり、早朝、またあの無人駅へ行った。
　そこで僕はいるはずのない人間を見つけた。
「おはよう」
　微笑みを浮かべて口を開き、そいつは軽やかな声でそう言った。
　彼だった。
　僕はすぐに駆け寄った。
「お前、死んだんじゃなかったのか！」
　まさか全部悪い夢で、実は彼も躊躇して動けなかったんじゃ……。
　その希望はたやすく打ち砕かれた。
「後何分？」
「は？」
「誰も、いないね」
「何を言ってんだよお前！」
　僕は彼の肩を揺さぶろうと手を伸ばした。しかし、その手はあっさりと彼の身体を貫通した。
「皆、まだ寝てるかな」
　彼は確かに僕を見ていた。僕に向かって喋っていた。でも全然会話が噛みあわないし、僕は彼に触れられない。
　彼は会話を終えた後、電車に飛びこんだ。電車が過ぎた後、線路を覗きこんだが彼の死体はなかった。綺麗なレールが二本、あるだけだった。
　一体何がどうなっているのかさっぱり分からず、翌日僕はまた駅に向かった。彼がいた。
「おはよう」
「なあ、お前は何をしてるんだ？　どうしてここにいるんだ？」
「後、何分？」
「……頼む。僕の言葉を聞いてくれ」
「誰も、いないね」
　その日も彼は電車に飛びこんだ。
　また次の日も、そのまた次の日も、何度も何度も僕は駅に行って、彼を止めようとした。でも、いくら僕が彼の耳元で叫んでも、身体を殴っても、彼は線路へ消えてしまう。

　なぜ、彼は死を繰り返すのだろう。
　そんなの決まってる。一人で死なせてしまったからだ。
　何が「一緒に死のう」だ。ふざけるな。臆病者の嘘つきめ！
　申し訳なくて、死にたくて、僕はあのホームであの電車に飛びこもうとした。
　でもできなかった。
　どれだけホームの淵のギリギリに立とうと、あと一歩を踏み出すことができなかった。
　他の死に方ならと思って、首を吊ろうとしたりビルから飛び降りようとしたりした。だけどそれすらも、僕にはできなかった。どうしても足がすくんで動かない。
　そうやって何度も試して、ようやく気がついた。
　僕は死ぬのが怖い。僕には、死ぬ勇気がない。

　死ねないのなら、せめて彼に謝ろう。僕は毎日彼の元へ通った。
　僕は彼に頭を下げ続けた。土下座もした。一緒に死ななくてごめん、生きていてごめんと。でも彼は電車の前に飛びこんだ。
　やがて、僕は懇願し始めた。どうしてここにいるんだ。何かあるなら教えてくれ。僕はどうしたらいいんだ。でも彼は毎日線路の下に消えていった。
　とうとう我慢できなくなって、彼を罵倒した。一体お前は何がしたいんだ？　僕を恨んでそんなことをしているなら間違いだ！　でも彼は握手を求めてきて、「ありがとう」と言ってきた。
　僕が何をしても、彼は笑顔で毎日死んでいった。
　そんな日々を積み重ね、やがて僕は認めることにした。
　彼に僕の姿は決して見えず、僕の言葉は二度と届かない。彼が会話しているのは、あの日の僕だ。
　僕に、彼をどうにかすることはできないのだ。

　彼が死を繰り返す間も、僕の時間は流れていく。
　僕は父と名乗る男の家に住むことになった。
　幼い頃に両親が離婚してから、父とは、一度も会っていなかった。だから突然現れたその男を僕は親だと思えなかった。だが、少しずつ互いに歩み寄り、どうにか上手くやっていけるようになった。
　父は僕に遠回しではあるが、高校へ行くよう強く勧めた。僕はその提案を受け入れた。予備校に通い、一年遅れで高校に入った。
　高校生活は、今までとは真逆の日々だった。友達が何人もできた。いじめもなかった。楽しかった。
　しかし、僕の背後にはいつも血まみれの彼がつきまとっていた。
　だから僕は、自分が唯一できることをした。つまり、毎朝駅に行き、彼の死を見届けた。贖罪の代わりにもならない自己満足だことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
　せめて最後の十分だけでも隣にいたかった。

　だけど……今。
　僕はこの町を発った。
　先週、僕は大学受験に合格し、今年の春から県外の大学に通うことになった。キャンパスの近くのアパートを借り、今日から下宿するのだ。
高三の冬、県外へ行くことについて悩みに悩んだ。彼から離れていいのか、と。
　だが僕はとうの昔に彼をホームに置き去りにしてここまでやってきた。僕はこれからも年をとるが、彼はずっと中学三年生のままだ。何をどうしても、彼と僕は離れていく。
　進むしかない。
　僕は理解した。
　死ねない僕にできる唯一のことは、幽霊の死を見届け続けることじゃない。前に進む。ただそれだけなのだ。
「ありがとう。そして、さよなら」
　僕は別れを告げた。
　駅はあっという間に小さくなり、見えなくなった。