よく晴れた冬の日。ポイニーは娘のスワンを連れ、丘の上にある屋敷にやってきた。
緑に囲まれた、小さな古城。ここに、ポイニーの母、オリビアがたった一人で暮らしている。ポイニーは時々、城の掃除をしに来ている。
城内は殺風景だ。最低限の家具しかない。石の壁や床からは冷え冷えとした空気が染み出してくるようだ。
ポイニーは居間のドアをノックする。
「お母さん、来たよ」
広い居間に、巨大な介護ベッドが鎮座している。ベッドの上には枯れ木のような老女が横になっている。
二人は枕元に立ち、彼女の顔を覗き込む。
ポイニーの母は、しわくちゃの顔を更にしわくちゃにして微笑み、
「よく来たねぇ」
と、掠れた声で言った。
「元気?」
スワンが尋ねた。
「元気よぉ。スワンの顔が見れたから、もっと元気になったわ。学校はどう? 楽しい?」
「そりゃよかった。学校は楽しいよ」
孫娘の前では気丈に振る舞っているが、その寿命はもう長くないことをポイニーは知っている。病が進行し、余命は幾許も無い状況だ。母には伝えていないが、おそらく気づいているだろう。
「私、先に庭掃除をしてくるよ。ママは話をしてて」
挨拶もそこそこに、スワンは飛び出した。古城の掃除は、ポイニーが室内担当、スワンが庭担当だ。
城には定期的に介護士やハウスキーパーが出入りしている。だから母の真っ白な髪は小ざっぱりと短く整えられ、身体も衣服も清潔だし、城内もまあまあ綺麗である。だから本当は、ポイニーが居間を掃除する必要はない。それでも箒で床をはくのは、老いた母を直視するのが苦しいからだ。
ポイニーは室内の掃除をしながら、最近の出来事や日常を話す。寝たきりの母をせめて楽しませようと、明るい話題を選ぶ。母は「おやまあ」「そうなの」と聞いてくれる。
「ママ、お祖母ちゃん。こんなの見つけたんだけど」
ドアが開き、娘が飛び込んできた。片手に大きな、そして真っ青な鳥の羽を持っている。
「どこでそれを見つけたの?」
「お庭の隅っこ。落ち葉に埋もれてた。いくつも落ちてたよ。すごく綺麗だけど、見たことがない」
「それは!」
スワンが持ってきた羽を見た瞬間、母は目を大きく見開き、羽へ手を伸ばした。スワンは羽を母の手に握らせた。
「ああ、ありがとう」
母は羽の先を指でそっとなぞる。母は今まで見たことがない顔をしていた。まるで若い乙女のような笑顔である。
「お祖母ちゃん、それは何? なんの鳥の羽?」
スワンが尋ねた。
「これはね、私が若い頃の話なんだけど……」
母はゆっくりと話し始めた。
オリビア・アガルタ。
この町で知らない者はいない、アガルタ家の長女である。豊かな栗色の髪に大きな鳶色の目の美女として知られていた。
貴族の女は、生まれた時から学校、職業、婚約者など、全てを親に決められる。オリビアも例外ではなかった。来月、オリビアは親が決めた相手と結婚する。
「お嬢様、もうそろそろお休みになりませんと」
お世話係に声をかけられ、オリビアは窓辺から離れてベッドに入った。電気が消され、部屋が暗くなる。
オリビアは全く眠れない。結婚のことで頭がいっぱいだ。
婚約者とは数回しか会ったことがないが、冷たい印象だった。オリビアに対して興味がなさそうに見えた。それに良い噂も聞かない。
オリビアは初めて親に反抗した。あの人とは結婚したくない、と。しかし「馬鹿なことを言うな」と一蹴された。
(……はぁ。何もかも嫌になるわ)
オリビアはベッドから出て、窓辺に立つ。丘のふもとの町明かりが見える。
(きれい。光の帯みたい)
窓から町の夜景を眺めるのが、オリビアの秘密の日課だった。彼女は今まで一度も、一人で町を歩いたことがない。昼間、付き人と一緒に何度か店へ行ったことがあるだけだ。その時に買った指輪を、彼女は肌身離さず着けている。
結婚まであと一ヶ月。何もなければ、一ヶ月後、オリビアは一度も町を歩かないまま、この町を出ていくことになる。
オリビアの右手が勝手に動いた。
カチャン、と窓の掛け金を外す。ガラス戸を横に開く。ひらりと窓枠を飛び越え、テラスに出る。テラスの支柱を滑りおりて、地面に立った。
二階を見上げる。静かだ。お世話係も誰も来ない。
自分のどこにこんな勇気があったのか、とオリビアは我ながら驚く。これから何をしようとしているのか、と自問する。そして明確な答えは出ないまま、歩きだす。裏門の門柱にかかっていた、火のついたランプをとり、屋敷の外へ踏み出す。
真っ暗な丘を下り、石畳の道へ踏み出す。眩い明かりに目が眩む。
通りは騒がしい。人々が軒先でビール瓶を持ち、大声で笑っている。肉と酒の臭いで煙たい。
「おや、お嬢ちゃん。どうしたんだ? そんな格好で?」
赤ら顔の男がオリビアに話しかけてくる。服はネグリジェ一枚、足元は薄いルームシューズだけ。街中を歩くにはひどく浮いた格好だ。
「迷子かい? こっちへおいでよ。可愛がってやるよ」
「おーい、おいで? 楽しませてくれよ」
男達がニヤニヤ笑っている。オリビアはその場から逃げ出した。闇雲に走り、気がつけば、人気のない通りに来ていた。ここがどこなのか、どうやって帰ればいいのかも分からない。
ポツポツと雨が降り出した。ドアが半開きの小さな家が目に入った。オリビアは咄嗟に家の中に入った。
「ご、ごめんください」
ランプで中を照らす。誰もいない。掃除用具が乱雑に置かれているだけ。ここは家ではなく、小屋だった。
オリビアは、ずるずると地べたに座った。ランプを隣に置く。
(私、何でこんなことしたのかしら)
指先が寒い。足がジンジンと痛む。
雨の臭いに混じり、土の腐臭とカビ臭さが鼻をつく。
壁の向こうから聞こえてくる雨音は次第に強くなる。空が一瞬明るくなり、雷鳴が轟く。
(家を飛び出したって、どこにも行き場所なんてないのに)
窓の外が一際明るくなる。その瞬間、轟音と衝撃が響き渡った。
オリビアは一瞬、自分が死んだと思った。だが耳は痛く、心臓はバクバクと脈打ち、身体はブルブルと震えている。
(何? 何が起きたの?)
オリビアは小屋の奥に目を凝らす。天井に穴があいている。そして雨に濡れた床に、大きな何かが落ちている。
オリビアは転がったランプを手に取り、小屋の奥を照らした。
弱いランプの明かりと煌めく雷光が、濡れた床を照らす。
「……とり?」
オリビアの口から言葉が漏れる。
それは巨大な──馬のように巨大な鳥だった。鳥と判断できたのは、周りに羽根が散らばっていたからだ。ラピスラズリのような、深い青色の羽根が、床にたくさん落ちている。
オリビアはゆっくりと近づいた。
怪鳥がうめく。顔をもたげて、オリビアを見る。その顔は羽に包まれてはいるが、とても人間に似ている。大きな二つの目、つんとした形の鼻、大きな口。
怪鳥が唸り声をあげる。オリビアは咄嗟に身を固くする。しかし怪鳥は床に顔面から倒れた。
「だ、大丈夫?」
オリビアは鳥のそばにしゃがむ。
「……ちを」
「え?」
「血を……」
怪鳥が喋った。まさか言葉を喋れるとは、オリビアは想像していなかった。
「血をくれ……」
オリビアは近くに落ちていたガラス片を拾い、人差し指の表面に傷をつける。赤く濡れた指先を怪鳥の口元に持っていく。
怪鳥はガブリと指に食いついた。鋭い歯が皮膚に食い込む。噛みちぎられる、とオリビアは目をつぶった。
怪物はぺっと指を吐き出すと、また床に突っ伏した。オリビアは自分の指を見る。大きい噛み跡があるが、ちぎれてはいない。
もう片方の手で、怪物の頭を触った。温もりと鼓動を感じる。生きているようだ。
オリビアは急に眠気を覚えた。パタリと、怪鳥のそばに横たわる。そのままストンと眠りにおちた。
バサバサ、という羽音で、オリビアは目を覚ました。
まず見たのは、羽毛の生えた化け物の顔だ。
「おい、人間」
化け物の口が開く。そこから、低い男の声がした。舞台俳優のような美しい声だ。
「人間よ」
「は、はい」
我にかえったオリビアは、ようやく返事した。
「俺に血を与えたのは、お前だな?」
「そうよ」
怪鳥はまじまじとオリビアを見つめる。大きな金色の瞳からは感情が全く読めず、不気味だ。しかし目線を逸らすのも良くないかも……とオリビアは思い、怪鳥の目を見つめ返した。
「何故血を与えた?」
「な、何故って、あなたが血をくれって言ったからよ」
「俺がそんなことを言ったのか?」
「言ったわ。覚えてないの?」
オリビアは怪鳥の羽を見る。赤黒い血が羽毛にこびりついている。
「怪我は大丈夫? 痛くないの?」
「少し痛むが、だいぶマシだ。お前の血を飲んだからだ。もっと飲めば完全に治るだろう」
オリビアは自分の右手を怪鳥に差し出す。
「もう少し飲む?」
怪鳥は彼女の細い手をまじまじと見た。そしてオリビアに顔をグッと近づける。
「お前は餌になりたいんだな?」
え、とオリビアが硬直した時、背後のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、継ぎ当てだらけの作業着を着た男だった。男はオリビアと怪鳥を見て、ポカンと口を開けた。そして一呼吸置いて悲鳴をあげ、「化け物だ!」と叫びながら小屋を飛び出した。
「他の人間が来る。あなた、逃げた方がいいわ」
「そうだな」
怪鳥は大きな足を持ち上げ、オリビアの胴体をがっちりと掴んだ。
「ちょっと、一体何?」
「せっかくの餌だ。持っていく」
ぐん、と身体に力がかかる。冷たい風が頬を打ったかと思うと、次の瞬間、穴の空いた屋根が見えた。屋根はどんどん小さくなる。街路樹が、道が、店が、町が、小さくなっていく。
オリビアは空を飛んでいた。
眼下に広がるのは、小さい屋根が密集する町の姿。丘の上に立つ自分の屋敷も見える。まるでミニチュアのようだ。少し首を傾けると、登り始めたばかりの朝日と、日光を反射して煌めく川が見える。その眩しさに、オリビアは目をすがめた。
冷たい強風がふく。オリビアの耳を切り裂かんばかりに。しかし身体をガッチリと押さえる怪鳥の足からは熱が伝わってきて、とても温かい。
オリビアは風で暴れる髪を鬱陶しく思いながら、下界の景色を眺めた。現実味がない光景だ。オリビアは飛行機に乗ったことがない。乗ったことがある知り合い達はみんな「すごい景色だった!」とはしゃいでいた。でも彼ら彼女らも、こんな光景を見たわけではないだろう。こんな、自分がはいた息の音すら聞こえない、鳥の世界を見たわけではないはずだ。
オリビアの家も町も遥か遠くへ流れていき、見えなくなる。今は、田園地帯の上を飛んでいる。
(どこへ行くのかしら。そもそも行き先はあるのかしら。このままどこまでも飛んでいくの?)
そう思った瞬間、ガクンと高度が下がった。どんどん下へ下へ落ちていく。オリビアは悲鳴をあげた。どんどん地上が迫る。
だが地面に激突する寸前で持ち直し、ふらふらと宙を飛んだ。そして、森の木々の間をくぐり抜け、開けた場所に出る。怪鳥はオリビアを掴んでいない方の足だけで着陸する。それから、オリビアをそっと地面に落とした。オリビアは早速起き上がり、キュッと拳を握って、怪鳥に抗議する。
「あなた! もうちょっと安全に飛んで──」
息を呑む。怪鳥の翼からドクドクと血が流れている。
怪鳥が悲痛な鳴き声をあげた。
「ちょっと待ってて」
オリビアは指先をもう一度切り、怪鳥の口へあてがった。怪鳥の生温かい舌が指先に絡む。今度は噛まれる前に指を引っ込める。
「どう? 傷は治った?」
唾まみれの指を袖で拭きながら、オリビアは尋ねた。翼の出血は止まっている。
「お前の血は美味いな。もっと欲しい」
「噛まないなら良いわよ」
「舐めるだけなんぞ我慢できん。もっと欲しい。餌になってくれるんだろ? 腕をよこせ」
「違うわよ。あなたの怪我を治したいの」
「つまり餌になるんだろ?」
「違う。あなたを助けたいの」
「それは餌になるのとどう違うんだ?」
怪鳥は心底不思議、という様子で尋ねた。
「犠牲になりたいんじゃない。力になりたいの」
「だから餌になるってことだろ?」
オリビアはこめかみを押さえる。話が通じなさすぎて頭が痛くなってきた。
「あなたは今まで、誰かを助けたいと思ったことはないの?」
「ない」
怪鳥は即答した。
「何故、俺が他人を助けなければならないんだ?」
「理由はないわ。ただ、そう思うかってだけよ」
「意味がわからない。俺は俺のためだけに力を使う。他人のためだと? やだね、そんなの。面倒で不自由なのは嫌いだ」
ここまで堂々と言われると、いっそ清々しい。格好良く見える。オリビアにはない物を持っている。
「……とにかく、私の腕は食べないでね」
冷たい風が吹く。オリビアは身体を震わせた。寝巻きのままだったことを忘れていた。外を過ごすには寒すぎる。
周囲を見る。針葉樹林の森の中──かと思いきや、振り返ると、小さな古城がある。蔦が這った石の壁、少し丸みを帯びた三角形の屋根。
オリビアは壁にある、小さなドアをノックした。返事がないのでそっとドアを押すと開いた。人の気配を感じない。
床にも家具にも埃がうっすらと積もっているが、状態は悪くない。
(掃除すれば住めそう……って何考えてるのよ。ここは人様のお家よ)
オリビアの良心がそう叫ぶ。一方でもう一つの心は、
(ここにはしばらくの間、誰も来ていないわ。しばらくは過ごせる)
と考えている。
今までの実家の暮らしを思い出す。親に全てを決められた自由のない生活。戻ったらどうなるかも考える。知らない人と結婚し、決められた人生を歩まされるだけ。
窓の外で大きな風音がした。見ると、怪鳥が庭に降り立っている。
「おい、そこで何をしてるんだ? こんな石塊の家で、俺から逃げられると思うなよ?」
オリビアはため息をつき、窓を開けた。
「この石塊の中、結構居心地良いのよ。入ってきたら?」
古城に来て数日が経った。
オリビアは怪鳥とどうにか暮らしている。
まずは掃除だった。箒と雑巾で埃を取り払った。次に買い物をした。クローゼットにあった服を着て、森の外へ買い物に行った。怪鳥はオリビアが外に出るのをかなり嫌がったが、食べなければ死ぬと言い張り、なんとか外出に成功した。
日暮れ頃、オリビアは商店に着いた。店長はオリビアをかなり怪しく思ったようだったが、なんとか誤魔化した。思い出の指輪と引き換えに、大量の缶詰やパンを買った。
夜は、星空を見ながらのんびりと話をする。雪こそ降らないものの、寒い。オリビアは怪鳥の温かい翼に挟まる。
「あなたは寒くない?」
「まさか。俺は寒さ暑さを感じないのだ」
「あなた、何者なの? そういえば名前は?」
「俺は俺だ。名前などない」
「名前がなかったら不便じゃないの?」
「不便? んなわけあるか。この世で最も強く、偉大な者。唯一無二。誰もが恐れる存在。それが俺だ。ただ一つの存在に、名前など不要だ」
絶対的な自信に満ちた声。
(まるで王みたい。実際、王なんでしょう。大空の王ね)
オリビアは怪鳥の青い翼を撫でた。
「そんな強い王様が、どうして空から落ちてきたの?」
「雷に打たれた。こんなことは初めてだ。俺としたことが、油断した」
怪鳥はバツが悪いのか、ぷいっと顔をそらす。
「そんなこともあるわよ」
「俺の話ばかりで飽きた。お前も話せ」
「私の? うーん……つまらないと思うわ」
「話せ。さもないと食っちまうぞ」
オリビアは今までの、親のいいなりの人生について、かいつまんで話した。
「本当につまらないな」
怪鳥はあくびをした。
「誰かに服従する生き方は楽しいか?」
「楽しくはないわ。でも人間は……私は弱いから、一人で生きていけないの。誰かに助けてもらわなきゃ」
「そんなに弱いのに、俺の餌にはなろうとするんだな」
「餌じゃないってば。困ってる人を、あなたは人ではないけれど、とにかく助けなきゃって思ったの。人間は困ってる誰かを助けようとする生き物よ」
「そうか? 俺を見た人間は、逃げるか矢を放つかのどちらかだぞ」
「まあ……そんな人間もいるでしょうね」
「お前は何故逃げない? 俺が怖くないのか?」
オリビアは目を細めて、怪鳥を見あげる。
「あなたが本当に私を餌としか思ってないなら、出会った瞬間に食べてるでしょ。そうしないからよ」
「おい! お前、俺を馬鹿にしてるのか?」
「してないわよ。なんでそうなるのよ」
怪鳥は大きな口をガバリと開け、オリビアの眼前に迫る。オリビアは微笑んだままだ。
やがて、怪鳥は口を閉じた。
「……お前みたいな奴、初めて見た。調子が狂う」
オリビアは羽に顔を埋める。
「おい、寝るな! 話の途中だぞ! 起きろ! ったく……」
二人は朝まで起きなかった。
簡単な食事をとる。オリビアは怪鳥の背に乗り、飛翔を楽しむ。
怪鳥はオリビアのために、森で狩りをするようになった。
「あら、誰かのために動いてくれるのね?」
「俺のためだ。お前に死なれると血が飲めなくなるから」
「ふふふ。ありがとう」
怪鳥が狩った動物を村で売り、食糧を買う。夕飯を食べた後は、眠くなるまで話をする。
怪鳥は今までの冒険を語る。空の果ての王国、海の巨大な怪物など、どんな物語よりも荒唐無稽な冒険譚を、オリビアはハラハラして聞く。
話し疲れると怪鳥は眠る。オリビアは怪鳥の翼の中で目を閉じる。
しかし、今後のことを考えてしまう。
(もしも、村人達が私達のことを通報したら? 古城の持ち主がひょっこり現れたら?)
オリビアは羊を数えたり深呼吸したりして、一生懸命、不安から意識を逸らす。羊の数が百を超える頃、ようやく眠る。
そしてまた、穏やかな日が始まるのであった。
ある日。珍しく雨が降っていた。オリビアと怪鳥は城の客間に引きこもり、雨音を聞きながら雑談していた。夜になるにつれ、雨脚は強まっていった。
笑顔で話をしていると、怪鳥が顔を上げた。
「足音だ。誰かが近づいてくる」
オリビアには雨音しか聞こえない。
だが程なくして、裏口の戸が開く音がした。
「オリビア様! いらっしゃいますか、オリビア様!」
聞き覚えのある声が響き渡る。屋敷の使用人だ。
オリビアは、目についた棚を押して、客間の入り口を塞いだ。
客間のドアがノックされる。ガチャガチャとドアノブを回す音がする。
「オリビア様! いるんでしょ? ドアを開けてください!」
怪鳥がカカカッという、警告の鳴き声をあげる。大きな翼を盾のように広げ、オリビアを包む。
「そこにいるのか?」
父の声だ。
普段の冷酷な声音ではない。狼狽している。
「ずっと探していたんだ。色んな伝手を使って、誰か娘を見ていないかと声をかけ続けて、ようやく見つけた。顔を見せておくれ」
「行くな」
頭上で怪鳥が囁く。
「また言いなりの人生を歩むのか?」
「父さんが悪かった。お前の気持ちを考えてやれなかった。結婚の話は一旦白紙にしよう。一度話し合おう」
「……お父様」
「行くな。行かないでくれ。お前無しじゃ嫌だ」
オリビアを包む翼に力がこもる。
「こっちに来てくれ、オリビア」
「一緒に行こう、オリビア」
オリビアは身じろぎ一つできないまま、二人の呼びかけを聞いた。
「ごめんなさい」
オリビアの目から涙がこぼれる。
「私、帰らないと」
「オリビア!」
「ごめんなさい。弱い人間でごめんなさい。私は飛べないの。お父様や家族を放ってはいけないの」
「じゃあ、飛べるようになればいい」
「え?」
「俺の血を一滴でも飲むと、俺と同じ鳥になれる」
羽毛を介して伝わる拍動が、大きくなった気がした。
「父親も家族も全て地面に置いて飛んでいける。あいつらもお前が娘だと思わないだろう」
オリビアは想像する。自分が鳥になって、彼と共に空を飛ぶところを。それはとても素敵で、最高だろう。
「……でも、鳥になったとしても、結局親の元へ戻ってしまうと思うわ。二本足で歩けてもないのに、飛べるわけないもの」
床に崩れ落ちるオリビア。
ドアを叩く音が大きくなる。ドアがミシミシと鳴る。破られるのは時間の問題だ。
「俺はお前のために何ができる?」
怪鳥はオリビアの顔を覗き込む。輝く金色の瞳に、泣いているオリビアの顔が映る。
「オリビアの力になりたい。助けになりたい。でも何をすればいいか分からない」
オリビアは少し考えた。
「花を持ってきてちょうだい。この世で最も美しいと、あなたが思う花を」
「花? そんなのでいいのか?」
「いいの。さあ、行って」
怪鳥が雨戸を破って飛んでいくのと、居間のドアが破られるのは同時だった。
「へえー、ロマンチック!」
スワンは目を輝かせた。
母は手に鳥の羽を握ったまま、微笑む。
「それで、その鳥は迎えにきたの?」
「まだよ」
「そうかあ。会えるといいね! 今日来るかもよ!」
「そうかもね」
ポイニーは静かに二人の会話を聞く。
若い頃の母がどんな運命を辿ったか、ポイニーは親戚や知り合いから聞かされている。
結婚目前に家出したオリビアは、実家に連れ戻された後、部屋に監禁された。どんなに自由を訴えても、誰も耳を貸さなかったという。
そのまま家の取り決め通り、オリビアは結婚させられた。しかし夫はオリビアにつらくあたり、浮気した。離婚して生家に戻ってきたオリビアに、一族は冷たくあたった。そんな母に、幼い頃のポイニーは酷く反抗した。
「ごめんなさい」
ポイニーは母の痩せた手を握る。
母は目を丸くする。
「どうしたの?」
「もっと親孝行してあげたらよかったって」
「何を言ってるの。あなたほどの孝行娘はいないわよ」
母はしわしわの手でポイニーの頭を撫でる。
「でも、小さい頃の私、酷いことをいっぱい言った」
「忘れちゃったわ」
「ママはたくさん苦労したのに」
「そうねえ。でも、私に苦労をかけさせた人は全員死んだからねぇ」
母は笑った。
その通りである。母を苦しめた父も祖父も親戚も、すでにこの世にいない。母は一族の誰よりも長生きしている。
「でも、その鳥と駆け落ちすれば良かったと思ってるでしょ?」
母が言う『鳥』というのは比喩だ。相手の正体は、墓場まで持っていくつもりなのだ。ポイニーに分かるのは、その『鳥』が、父よりもmずっとずっと魅力的な人物であろうということだけだ。
「思わないわよ」
「本当に?」
「ま、ちょっとは夢見たわね。でも、立派な娘と孫がいるのよ。悔いはないわ。それに最後にこのお城に住めたし、思い残すことはないよ」
ポイニーははっとする。今更ながら気づいた。
「このお城、鳥と一緒に暮らした場所なの? だからみんなが死んだ後、この城を買って引っ越したの?」
「そうよ」
「鳥が迎えに来るかもしれないから?」
「ええ」
窓から西日が差し込む。
城に引っ越す時、母は暮らしやすいようリフォームをした。城の全ての窓にサッシとガラスをつけたが、中でもこの居間の窓は特別だ。リモコンで窓が開閉できるようになっている。そのリモコンは、祖母の手元に常に置かれている。そんな仕様にした理由を、ポイニーは今になって知った。
「さて、そろそろお部屋の掃除をするね。それから私達、今日は泊まるから」
「ええ。ゆっくりしていって」
深夜。
ポイニーとスワンは、階下の窓が開く音で目を覚ました。
一体何事か。もしや泥棒か? ポイニーは通報のためにスマートフォンを、スワンは武器代わりの箒を持って、一階に降りる。
「遅くなってすまない。随分探すのに手間取ってしまった」
聞いたことがない声が、居間から聞こえる。二人はドアの前に立ち、効き身を立てる。
「大丈夫よ。むしろ最高のタイミングで来てくれたわ。本当にありがとう」
「どうだ? 二本足で歩けたか? 飛べそうか?」
「ええ。お待たせしてごめんなさいね」
ポイニーはドアを開けた。
窓が全開だ。そして母がいない。
代わりに、ベッドにも床にも、羽がたくさん落ちている。
青い羽と、真っ白な羽が。
「おーい! お祖母ちゃーん!」
スワンが窓の外へ向かって手を振る。
ポイニーは、あ、と声をあげた。
雲一つない月夜。二羽の大きな鳥が飛んでいるのが見える。普通の鳥の大きさではない。非常に大きい。まさしく怪鳥だ。
「バイバイ、お祖母ちゃーん!」
スワンが窓辺から手を振る。慌ててポイニーも懸命に手を振った。
「お母さーん! たまには帰ってきてねー!」
すると、美しい鳴き声がかえってきた。
二羽の鳥はどんどん遠ざかり、月の向こうに消えた。
「そういえば、唯一無二の鳥が二羽に増えたんだから、名前がいるんじゃない?」
「言われてみれば、そうだな」
「私がつけてもいいかしら?」
「いいぞ」
「あなたの名前は、アイテール」
「アイテール?」
「元々は古代の神様の名前よ。天空に満ちる伝説の気体の名前でもあるわ。どこまでも飛ぶあなたにピッタリだと思うの」
「アイテール、か。うん、いいな」
「気に入ってくれた? 嬉しいわ。どこまでも一緒に飛びましょう、アイテール?」
「もちろん。ずっと一緒だ」