「誰の手も借りずに、死にたいんだよね」
メイはそう言った。
部室で、文化祭に出す部誌を作っている時のことだった。コンビニにお菓子を買いに行こうよ、くらいのノリで、メイは確かに『死にたい』と言った。
「いきなりどうした?」
私は、できるだけ平静を装って尋ねた。
いじめ? いや、そんな話は聞いたことがない。みんな、普通に仲良くしてる。家族の不仲? でも、夕食は一緒に食べてるってこの前話してたばかりだ。不治の病? いや、メイの長い髪は今日もツヤツヤで、顔色も元気そうだ。
「あ、病んでるわけじゃないよ?」
顔を上げ、メイは微笑む。
「五月にお祖母ちゃんが死んだんだ。病気で」
「あー……そうなんだ」
曖昧に相槌を打つ。ごめん、ぜんっぜん覚えてない。五月。大体三ヶ月前か。五月、五月……あれ、私、何してたっけ。
「火葬場の煙突の煙を見ながら、思ったんだよね。こういうの、嫌だなあって」
「こういうの? お葬式がってこと?」
「お葬式もだし、お祖母ちゃんの姿もそう。お祖母ちゃん、痩せてシワシワで、それにボケちゃってたんだ。私も家族のことも忘れてた。ただ、写真を見ながら『山に行かなくちゃ』とか『夫はどこ』とか『霧の中に夫がいるの』とか、そればかり繰り返し言っててさ。もうずっと、何年も。病院から脱走騒ぎもあったんだよ」
隣のクラスの噂話をするみたいな調子で話すメイ。
「お祖父さんはどうしてるの?」
「いないよ。そもそも、私にお祖父ちゃんはいないし」
初耳だ。
「お祖母ちゃん、今で言うところのシングルマザーなんだ。女手一人でお母さんと叔母さんを育てたんだって。お祖父ちゃんのことは何の手がかりもないし、そもそもボケるまで探そうともしなかったんだよ。今更、夫がどうのか言われてもどうしようもない。ましてや霧なんて、意味不明だし」
「へ、へえ……」
そんな家庭の事情があるとは知らなかった。
「まあ、とにかくね。そんなお祖母ちゃんを見て、思ったの。私は静かに、安らかに、誰も知らない間に、綺麗なまま、死にたいなあって」
ああ、なるほど。
「別に長生きしないと思わない。長く苦しむよりも、短くても元気な人生にしたい。それで、煙のように、ふわっと死んでいなくなりたいなって」
「んー、まあ、それが一番楽だよね」
分かる。痛いのや苦しいのが嫌なのは、私だってそうだ。
「でしょ?」
「でも、どうしてそれを今言うわけ?」
「これ、見てよ」
メイは、私に部誌を手渡した。
上下二段組のページで、上段に白黒の写真が印刷されている。
「これがどうかしたの?」
私は部誌をひっくり返した。背表紙の号数を確認する。この部誌は五年前に刷られたものだ。
「そこのページの写真ね、お祖母ちゃんが持ってた写真と同じなんだ」
「え?」
「お祖母ちゃんが死ぬ直前まで見ていた写真と同じ場所なんだよ」
ページを二度見する。
古い写真だ。立派な大きなお社と、蔦が巻きついた鳥居が写っている。地面は雑草が生え放題で、遠くはぼやけてよく見えない。写真の下にあるキャプションには、『校舎裏の山で撮影』と書かれている。
「あの藪のところか」
学校の裏には山がある。竹藪が生い茂る山だ。名前は知らない。みんな、ただ『山』と呼んでいる。当然、近づく人はいない。
「何でこんなの読んでたの?」
「タケヤン用のネタ探しだよ。先輩のをパクろうと思って漁ってたの。そしたら見つけてさ」
顧問のタケヤンは、私達が自由気ままに小説を書くことをよしとしない。部活である以上、趣味の作品だけではなく、ちゃんと実績になるものを用意しろ、と言う。だから文化祭の部誌では、研究発表として、地域について調べたレポートを載せなければならない。
幸い、ネタには事欠かない。この町は神隠し伝説が多いことで有名だ。地主の一族が消失した、農家の何とかという娘が忽然といなくなった、といった昔からの伝承の数々に、科学技術の時代になっても囁かれる都市伝説。
そういうちょっと怖いお話を、歴代の先輩が部誌に書いている。私達はそれらの記事を再利用すればいい。適当な古い記事を焼き直すのだ。部活動してますという体裁が整えば、中身はなんだっていい。
「このレポート、誰が書いたんだろう」
私はレポートのページを遡った。
「あれ? これ、落丁かな」
「どうしたの?」
「このレポート、作者名がない」
文芸部のルールでは、一行目に大文字でタイトル、二行目に名前があるのが普通だ。
この山のレポートのタイトルは『校舎裏の山について』。その次の行は、空っぽだ。作者の名前が欠落している。
巻頭の目次を開く。『校舎裏の山について』というタイトルはあるけど、作者名がない。奥付にも名前がない。
「どういうこと?」
部室のパソコンのフォルダを開く。歴代の部誌の電子データを遡る。
五年前の、印刷用完成データと、当時の部員が提出した生データを見つける。しかし、完成データにも、『校舎裏の山について』というタイトルの生データにも、名前は見つからない。
「うーん、何でだろう。この人だけ名前がないってのが変な感じ」
「その時の編集がサボってたんじゃないの? ま、そんなことはどーでもいーじゃん」
メイは私の手から部誌を奪い取ると、椅子から立ち上がった。そのまま出口まで歩いていく。
「え、ちょっと、どこへ行くの?」
「山だよ。ちょっと行ってくる。取材だよ、取材」
「は?」
この八月の炎天下に、道があるかどうかも分からない竹藪の山に、入る?
「待て待て待て、熱中症で死ぬよ! 山とか、虫とか蛇とかわんさかいるし、危ないよ!
「それでも私は行くよ、気になるもん。一緒に行こうよ。ちょっと見に行くだけだからさ。時間がなくなったら、君だけ先に帰ったらいいじゃん」
「え?」
私の返事を待たずに、メイは部屋の外へ飛び出していった。
……しょうがない。私も少しだけ気になるし。一人じゃ原稿書く気にはなれないし。とりあえず、親には遅くなるって連絡しておこう。
パソコンの電源を落とし、エコバッグに財布とスマホとモバイルバッテリーを入れて、部室を出た。廊下の曲がり角で、メイがニコニコ笑顔で待っていた。
「いい? 写真の場所を見たらすぐ帰るからね」
「分かった分かった」
十分後。
私達は山の横の道を歩いていた。
アスファルトの道路の端に、枯れた側溝がある。その側溝を挟んだ反対側は、竹林だ。竹が密集して生えている。足を踏み入れることは無理だ。
メイは、私の少し前を歩いていた。部誌を読みながら歩いている。転んでも知らんぞ。
「そういやさ、そのレポート、何が書いてあるの?」
「昔、あの山の上には、死期が近い病人や老人が暮らすための屋敷があったんだって」
「え、あの山に? 場所は分かってないんじゃなかった?」
重病人や老人だけが暮らす屋敷の伝説は、昔からこの町にある。だけど、どこにあるのか、誰が屋敷を運営していたのか、とか、そういう証拠が全くない。だから、ただのおとぎ話でしかない。以前読んだある本には、姥捨山の変種だという説が載っていた。
「でも、ここにはそう書いてる。お祖母ちゃんがこの場所に行きたがってたのも、そのことを知ってたからかもしれない。とにかく行こう」
山のふもとを半周くらいした頃。ようやく、竹林の切れ目を見つけた。
細い石の階段が、山の奥へ続いている。先は暗く、見通しが非常に悪い。まともな人間なら絶対に入らない。嫌な感じがする。
「本当にここ?」
「うん」
メイは何の躊躇もなく、階段を登り始めた。
ああ。もう仕方ない。私も、彼女の後ろに続く。
山の中に入った瞬間、むわっとした空気が私の顔にまとわりつく。草か土か何かが腐った臭いがする。虫が大量に飛んでくる。来る途中にコンビニで買って、全身に吹き付けた虫除けスプレーは、何の役にもたたない。
「あ、キョウチクトウだ」
メイが階段の脇の木に顔を近づけた。この山に入って初めて見る、竹以外の植物だ。真緑の葉っぱで、背が高い。
「キョウチクトウ? よく知ってるね」
「この前、ネットで読んだんだ。毒があるんだってさ。食べると吐き気やめまいがして、最悪の場合、死ぬんだって」
楽しそうに話しているけど、このメイの話し方……面白半分の冗談じゃない。
「他にも、彼岸花とか、ソテツとか。学校に生えている草や木に、毒があるんだって。面白いよね。いつだって死ぬことができるんだ」
「あー、まさか、食べる気?」
「食べるわけないでしょ。苦しい死に方は嫌だもん」
小馬鹿にした目で私を見るメイ。何だろう、ビミョーに腹立つ。
「痛いことはしないで、眠るように死にたいんだよね」
「えっと、じゃあ、外国で安楽死とか?」
「んー、それもちょっと違うなぁ」
「じゃあなんなのさ」
「私が目指すのはね、完全犯罪ならぬ完全自殺。誰かの手を煩わせることなく、誰にも見つかることなく、怪しまれることも止められることもなく、一人で死ぬことなんだ」
笑顔でガッツポーズするメイ。私はどう反応していいか分からない。曖昧に笑う。
階段を登りきる。
竹藪で囲まれた、草ぼうぼうの空き地。そして、古ぼけた神社。
メイがあの部誌のページを開く。私は横から覗く。白黒の写真と目の前の景色を比べる。全く同じだ。
鳥居をくぐる。蝉の鳴き声が、遠くなった気がした。
石畳の道が、まっすぐお社まで続いている。
道の両側の草っ原には、いくつかの小屋とテントが建っている。崩れかけてボロボロのものもあれば、古ぼけた石の小屋に、ごく普通の現代的なテントまである。でも、人の気配はない。
お社の前に来る。写真や鳥居の前で見た時の印象よりも、大きく見える。普通のお社と違うのは、賽銭箱やガラガラ鳴らす鈴が無いことだ。
「……まあ、何というか、ただの古い神社って感じだね」
私はカバンからスマホを取り出し、撮影しようと構える。
その時、メイが不意に前へ歩きだした。お社の戸を押して中に入っていった。彼女の姿が社の中へ消えるのを、私はスマホのカメラ越しに見ていた。
──ん? え、は? 入った? 中に?
お社の戸が開き、メイがひょこっと顔を出す。
「ねえ、来てよ! 面白そうだよ」
「勝手に入ったらマズいって!」
「でも面白いそうだよ。ここ、ただの神社じゃなさそう」
メイはまた顔を引っ込めた。
……マジか。
私は、色褪せて灰色になった戸に触れた。軽く押すと開く。中は──暗い。真っ暗だ。戸から差し込む光が、うっすらと中を照らしている。石の階段が下へ下へと続いている。奥に白い光が見える。あれはスマホのライトだ。
「危ないって! 見つかったらどうするの!」
「ここまで来たのに帰るなんてやだよ!」
メイの声が反響する。
ったく。
とりあえず、万が一、戸が閉じられないよう、戸の溝に枝葉を差し込んで動かなくしておこう。
「はあ、行くかあ」
スマホのライトを頼りに、中へ一歩入る。外の暑さが嘘のように涼しい。ブルリ、と身体が震える。
階段をゆっくり降りる。一段一段が高い。もしも足を滑らせたら──いや、考えるのはやめよう。
一番下まで降りた。冷たい風が私の頬を撫でる。
「ここは……」
広い広い洞窟のようだ。前方にライトを向けると、光を反射するものがある。水だ。
「地底湖?」
「みたいだね」
遠くから、メイの声が聞こえた。
「これ。見て見て」
メイは地底湖の淵に立ち、岩の壁にライトを向けている。
「すごいよ、これ」
ライトの先には、色鮮やかな絵があった。
壁画だ。
上下左右、洞窟の壁一面に、絵が描かれている。
「これは、いつの時代の絵? 平安? 奈良? すっごく昔ってのはわかるけど」
日本史の教科書に載ってそうな絵だ。右から左へ、場面が変わっている。人々が小屋や洞窟の中で寝ている場面、湖の前に集まっている場面、そして、湖に……身投げする場面。
うん。身投げだよね、これ。泳いでるようには見えない。
身投げの後の場面はない。ぷっつりと途切れている。その代わりに、白色のスプレーで落書きがされている。路地裏なんかで見かける落書きだ。
地上の崩れた小屋とテント。地底の壁画とスプレーの落書き。古いものと新しいものが雑多に入り混じっている。
廃墟には、不審者や犯罪者がいる、と聞いたことがある。ここもそうかもしれない。テントやスプレーの落書きがあるということは、今でも誰かが出入りしているということだ。
「すっごく広いねえ、ここ」
メイは地底湖の周辺をのんびりと歩いてまわっている。無駄だと知りつつ、提案する。
「ねえ、もう帰ろうよ」
「やだよ。もっと探検する」
メイの背中は遠ざかっていく。
しょうがない、彼女を一人残して帰るわけにもいかない。
もしも誰かがやって来た時のために、隠れ場所でも探そうか。
スマホのライトを壁に向けながら、私はメイの方向とは逆向きに歩く。すると、すぐに見つかった。横穴だ。スプレーの落書きの横にある。
中はとても細い。そして、地底湖に比べるととても天井が低い。腕を伸ばしてジャンプすれば届きそうだ。壁がツルツルだから、人が掘ったものに違いない。
左右に等間隔に穴があり、中は石でできた寝台っぽいものがある。すごく狭い寝室だ。寝台以外には何もない部屋もあれば、物が散乱している部屋もある。
まっすぐ歩くと、すぐに行き止まりに着いた。どうやら、左右に五部屋ずつ、合計十部屋あるらしい。人はいない。
横穴の入り口まで戻る。今度は、私から見て右側の部屋から、ひと部屋ずつ見ていく。
一番目の部屋には、丁寧に畳まれた服や靴、アルバムがある。アルバムを開く。古ぼけた写真が並んでいる。
二番目の部屋は通路を挟んだ左側の部屋には何もない。
三番目の部屋は空っぽ。
四番目の部屋は散らかっている。服や靴や知らない漫画、他にも細々した物が色々。小物にプリントされているキャラクターはネットの何かで見たことがある気がする。キャラクターの特徴で検索してみる。出てきた。平成初期に流行したものらしい。
五番目の部屋は、何もな──
「あれ」
知ってる物が見えた気がして、私は半歩後ろに下がり、通り過ぎたばかりの部屋を覗いた。
スマホのライトを奥に向ける。部屋の隅にぽつんと放置されているそれは、私の肩にかかっているものと同じ、高校指定のカバンだ。
私は部屋の中に入り、カバンを開けた。
高校二年の教科書やノートが入っている。ノートの表紙には、名前がある。知らない名前だ。教科書のページをめくり、奥付を見る。五年前に出版されたものだ。
五年前?
カバンを探ると、他にも色々出てくる。電池切れのスマホ、財布、生徒手帳……え、うそでしょ。五年前の文芸部の部誌がある! しかも付箋付きだ。
私は部誌にスマホのライトを向ける。片方の手で、付箋がついたページを捲る。
そこには、あの『校舎裏の山について』のページがあった。私とメイが部室で読んだレポートと同じだ。あの裏山の写真もある。
違うのは、作者の名前があること。ノートや生徒手帳に書かれた名前と同じだ。
どういうことだろう?
スマホをかざし、カメラで名前を撮影する。でも、写真フォルダを確認すると、そこにあるのは真っ暗な画面ばかりだ。ちゃんとフラッシュを焚いているのに。生徒手帳もノートも教科書も、名前を撮ろうとすると真っ黒になる。
は? どういうことだ?
写真が撮れないなら、メモ帳に名前を記録しよう。私はメモ帳アプリを開き、名前を入力する。
すると、突然スマホの電源が落ちた。
一瞬、息をするのを忘れた。突然の真っ暗闇に、思わず声をあげてしまう。すぐに、スマホの電源ボタンを長押しする。画面が明るくなり、再起動した。
もう一度メモ帳に名前を入力しようとする。すると、また落ちた。
変だ。一体、何が起きてるんだ?
電波は普通に届いている。メッセージアプリは動くし、今の天気も見れる。だけど、この作者の名前を記録することだけはできない。
私は先輩のカバンにノート類を戻し、後にした。
さて、次は左側。今度は奥から部屋を見ていく。
六番目の部屋に、人がいた痕跡はない。
七番目の部屋は、ゴミが散乱している。特に目ぼしいものはない。
八番目も同じだ。コンビニのゴミっぽい。ここにいた人につながりそうな物はない。それに、さすがにゴミには触りたくない。
九番目の部屋は何もない。
最後、十番目の部屋を見る。
ここには小さなリュックサックがポツンと置かれている。何だろう、どこか見覚えがある。それに、他の部屋の物と比べると、まだ新しい。
リュックサックを開ける。教科書は中学校のもの。ノートの表紙はどうだろう? あ、苗字が私と同じだ。
リュックサックのポケットを探ると、スマホが出てきた。充電は切れてるけど、私と機種が同じだ。これなら私のモバイルバッテリーで充電できる。
私のカバンからバッテリーを出して接続する。待つ間に、リュックサックをもっと探り、生徒手帳を見つけた。
五番目の部屋で見つけたのは高校生の生徒手帳だったけど、これは中学生の生徒手帳だ。顔写真は見覚えがない……でも、どこかで見たことがある気もする。
数分後、画面が明るくなり、パスワードを問われた。生徒手帳に書かれていた誕生日を打ち込むと、開いた。よかった。
早速、メッセージアプリを開く。
連絡欄を見た瞬間、スマホを落としそうになる。
瞬きし、目を擦り、暗い天井を見上げる。それからもう一度画面を見る。
画面には……私の名前とアイコンが映っている。
私だけじゃない。私の父や母の名前もある。私達に、メッセージを送っている。『いつ帰る?』『五時ごろ』『今日の弁当美味しかった?』『うん』──たわいもないメッセージが、ずっと並んでいる。こんなの、私は知らない。
自分のスマホを確認する。そんなメッセージはどこにもない。この正体不明の、苗字が同じ人間のスマホのメッセージアプリの中にだけ、私と家族へのメッセージが存在している。
震える指で、写真アプリを開く。たくさんの写真がある。
私の写真もある。写真の中の私は大抵、笑っている。このスマホの持ち主とのツーショットもある。何枚もある。
最新の写真は、ゴールデンウィークの時に撮られたものだ。背景は大都会。ここは知ってる。県外の賑やかな町に遊びにいった時のものだ。
私のスマホにも、その時の写真がある。同じ場所、同じアングルの写真がいくつもある。ただ、どの写真にも、私と両親の顔しか映っていない。どこにも、この中学生はいない。
この子は、一体どこへ行ったんだろう?
SNSアプリを開く。
フォロー数ゼロ。フォロワー数もゼロ。非公開アカウントの設定になっている。ひたすら独り言をここに投稿していたみたいだ。
最後に投稿されたのは四月末。ゴールデンウィークの前日。『もう嫌だ。さよなら』とだけある。
背筋がぞくりとする。呼吸が早くなる。
何故? 私はこの子のことを知らない。全くの赤の他人だ。そもそもゴールデンウィークは親と都会の町に旅行に行って、普通に家に買ってきて、それから──。
それから、どうしたんだっけ?
頭が痛い。冷や汗が流れる。思い出そうとするな、と本能が告げる。
私は素早く画面をスクロールする。投稿を遡る。
この子は、部活で悩みを抱えていたようだ。所属は陸上部。厳しい先輩と顧問の指導、それに反発する後輩と同級生。その間で板挟みになっていたようだ。
『姉に言ったら、部活なんか適当でいいって感じで笑われた。いつも困ったことがあったら相談してって言ってるくせに』
知らない誰かと話をしている光景が、脳裏によぎる。
家の、私の部屋。そこに私と誰かがいて、その誰かが私に話しかけている。顔も声も全く分からない。でも、ちょっと躊躇うような、でも何でもない日常のような雰囲気で、私に話しているのが分かる。
私はその機微に気づかなかった。そもそも、部活にマジになるなんてことが、私には理解できなかった。
「ごめんよ」
存在しないはずの誰かに向かって、気がつけば謝っていた。
何故、こんなに罪悪感で胸が張り裂けそうになっているのだろう。
分からない。
思い出せない。
目尻に浮かぶ涙を拭い、画面をスクロールする。ある日の放課後、部内の最悪な空気から逃れるため、自主練という名目で、一人きりで学校の外を走っていたようだ。サボりたくて、普段のコースを外れて走っていたら、ふらりとこの山までやってきた。そして、何となく階段を登って、ここまで来たようだ。
この時は、他にも人がいたらしい。何人かが地上のテントやこの洞窟に住んでいたそうだ。
『私の話を優しく聞いてくれた。またここに来よう』
『ここは落ち着く。ずっとここにいたい。帰りたくないな』
『あれ、あの人がいない。どこへ行ったんだろう』
穏やかな投稿が続く。
『ここ、自殺スポットなんだって』
一瞬、指を止める。それから、ゆっくりと指を動かす。
『誰にも知られずに死ねるんだって。見つからないし、怪しまれないし、誰も探しに来ないんだって』
『あれ? 湖面に霧が出てる。洞窟なのに、不思議』
『今日も霧が漂っている。何かが水の中に落ちる音がした。霧が晴れると人が一人、消えていた』
『警察も誰も来ない。ニュースにもなってない。本当にここには邪魔な人が来ないんだ』
『また一人、霧の向こうに消えた。私一人だけになった』
『もう嫌だ。さよなら』
私はもう一度スクロールし、投稿を読み返した。
繰り返し出てくる単語……霧。水音。人が消えた。
メイのお祖母さんは、霧の中に夫が消えた、とか言ってたらしい。
不意に、目の前が霞んだ。
ライトで周囲を照らす。いつの間にか、白い煙のようなモヤが、漂っている。
「──そうだ、メイ」
メイは今、何をしてる?
このスマホと、生徒手帳、他にも細々した物を私のカバンに入れる。とにかくここを出ないと。
通路から広い空間へ飛びだす。駄目だ、前がほとんど見えない。これはただのモヤじゃない。霧だ。洞窟の中で霧なんてあり得ないけど、そうとしか言いようがない。
「メイ! 返事して!」
叫んでみる。返事はない。
私はメイのスマホに電話をかける。どこからか着信音が聞こえるけど、メイは電話に出ない。
「メイ、聞こえてるでしょ?」
ここは、洞窟で音が反響しやすい。そのうえ、深い霧が立ち込めていて、音の聞こえ方が普段と違う。どこでスマホが鳴っているか、全然分からない。
岩の壁に片手をつき、ゆっくり歩きだす。走りたいけど、こんな霧の中、足元が見えない保証はない。慎重にいかないと。
「悪ふざけはよして!」
声を出しながら、考える。
ここは、多分、自殺スポットってやつなんだろう。たくさんの人が死んでるんだと思う。
ただ、普通の自殺スポットじゃない。ここで死ぬと、存在そのものが世界から消える。スマホからも学校の書類からも、家族の記憶からも、その人物は消えてしまう。
四月末まで実在したに違いない、私の妹。だけどどれだけ記憶をさかのぼっても、そんな人、私は知らない。
でも、胸は痛む。辛い。しんどい。涙が頬を伝う。あの子は本当に、いたんだと思う。きっと、私は無意識下で覚えている。
メイの祖母は、ボケてから祖父のことを思い出したという。健康な脳では思い出せないということなんだろうか。病気でなければ思い出せない、というのは、『重病人や老人だけが暮らす屋敷の伝説』と関係があるんだろうか。分からない。
分かるのは、メイの『誰の手も借りずに死にたい』という願望とこの場所は、相性が良い。良すぎる。
「メイ、電話に出て! ねえってば!」
着信音が大きくなってきた。すぐ近くまで来た感じがする。
「ここにいるよ」
背後で、声がした。文字通り私は飛び上がった。
振り返ると、メイがいた。彼女の制服のスカートから、スマホの着信音が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと。驚かさないでよ」
「ごめんごめん、さあ、行こ」
メイは私の手を取ると、迷いのない足取りで歩き出す。
「ちょっと、こんなに煙が出てるのに、危ないよ。そっちが出口?」
「うん、そうだよ」
手が痛い。メイが私の手を、強く強く、握りしめている。
「手が痛いんだけど」
メイは何も言わない。手を握りしめたままだ。
「こっちの方に進んだら、湖に落ちるんじゃないの?」
「湖には入らないよ。霧の中に入るんだ」
私は足を止めた。だけど、メイはそのまま歩き続け、私は引っ張られて転びそうになる。それでも何とか踏みとどまって、私はもう片方の手で、メイの肩を掴んだ。
「メイ! 止まって! ふざけてんなら、本当に怒るよ?」
「どうしたの? こっちの方向であってるって」
キョトンとした顔でこっちを見るメイ。
「そっちは湖の方向だよね? しっかりして。学校に帰って、原稿を書くんでしょ!」
「そんなの、どうでもいいじゃん」
「どうでもよくない! ここにいると本当にマズいって! 湖に落ちたら、誰も助けてくれないよ! 死ぬの! アンタも私も!」
メイはヘラヘラと笑う。
「完全自殺達成じゃん。イイね」
「あんたの完全自殺は、一人で死ぬことでしょ? 今は私も一緒だよ!」
「じゃあ、私と一緒に来たらいいじゃん。一緒に逝こうよ」
一緒にトイレ行こうよ、くらいのノリで、メイはそう言った。
心臓が早鐘を打つ。耳元で血がドクドクと鳴っている。
これはもう、いよいよヤバい。本当の本当に、マズい。
メイ、普通じゃなくなってる。
きっと、湖がメイから正気を奪ってるに違いない。
「……この先には進ませない。メイを死なせたりしない。私と一緒に帰るんだ」
「えー? 自分勝手だなあ。私が私の命をどうしようが、私の勝手でしょ? それよりほら、一緒に逝こうよ」
私はメイのこめかみを、スマホの角で思い切りぶん殴った。
メイがよろめき、手が自由になる。
私はメイの背中にまわり、後ろからつかみかかった。
「離せ!」
「帰るよ! 二人でね!」
山を出たら、きっと正気に戻る。戻るはずだ。戻ってほしい。
霧のせいで何も見えない。でも、自分の感覚を信じるしかない。
こっちから来たはずだ。横穴からはそんなに離れていないはず。
「やめて、離して! そっちは出口じゃない!」
メイが腕の中で暴れる。私は両腕に力を込めて、メイを逃さないようにする。
つま先で足元を確かめながら進むと、壁に行き着いた。洞窟の壁だ。よし、この壁を伝っていけば、階段まで戻れる。
「ね、ねえ、ごめんって。私が悪かったよ。君はもう一人で帰っていいよ。私だけいくからさ」
メイがしおらしい声を出しながら、モゾモゾと腕の中で動く。
「うるさいクソバカ! 動くな!」
メイが死ねば、『メイという友達がいた私』も死ぬ。
全てなくなる。残るのは、無意識下に積もる思い出の遺灰だけだ。
すでに『妹がいた私』は死んでいる。何度も死んでたまるか。
見覚えのある横穴を通り過ぎる。落書きされた壁画を通り過ぎる。
汗が頬と首を伝う。息が苦しい。でも、もう少しのはずだ。
「離して、離して。嫌だ。離して、離して。」
抑揚のない声。メイの声だけど、喋ってるのはメイじゃない。
私は両腕に全身全霊の力を込めて、メイを拘束し、引き摺りながら、出口を探して歩き続ける。
涼しい風が、私の頬を撫でた。
……ああ、ようやく、ようやく、辿り着いた。地上へ続く階段だ。上から風が吹いてくる。
もがくメイを抱えて階段を登る。メイの足が石の段差にガツガツと当たる音がする。痛そう。靴が脱げるかもしれない。だけど、どうしようもない。
階段が終わる。開けっぱにしておいた戸をくぐり、外へ出る。
空が赤紫色だ。もう夜が近い。山の中はほぼ真っ暗だ。
大丈夫。私達は入口の鳥居から、まっすぐこの社まで来た。ここを真っ直ぐ歩けばいいだけだ。難しくない。歩けるはずだ。
息を整え、力を振り絞って道を歩く。メイのうわごとには耳を貸さない。黙って進む。
ようやく、鳥居を抜けた。
「え? あれ、私、あれ? ちょっと、何してんの? 歩けるよ!」
メイが急に動いた。疲労で限界だった私の両腕から、するりと逃げる。
「う、何か足が痛い。靴紐解けかかってるし。あれ? 地底湖は?」
キョロキョロと周りを見回すメイ。
「戻ってきたんだよ。あそこは本当にヤバい」
「そうなの? 全然覚えてないや。あ、部誌がない! 置いてきちゃったかも」
「どうでもいい。帰ろう。もう夜なんだし、帰らないとまずいって」
「え? あ、いつの間にこんな時間に……うん、帰ろっか」
二人で階段を降りる。メイが先、私が後だ。
日が沈んでも、ここはとても蒸し暑い。スマホのライトめがけて虫が飛んでくる。鬱陶しい。
「ねえ、洞窟で何かあったの? 私、途中からよく覚えてない。死ぬにはすごくいい場所だと思ったのは確かなんだけど」
「……有毒ガスが立ち込めてたんだよ」
「はあ?」
本当のことは、話さないことにする。とてもじゃないけど、話す気になれない。
地底湖から霧のような有毒ガスが噴き出していたという私の作り話を、メイはうんうんと頷きながら、素直に聞いている。
ああ、そうか。
この町には、神隠しの伝承や都市伝説が多い。その理由がわかった気がする。
あの地底湖を知った人達が、何とかしてこの事を伝えようとしたからだ。
地底湖で人が死ぬと、その存在は消滅する。
でもその消滅は完璧じゃない。痕跡は残る。
昔の時代にも、私みたいに湖から帰ってきた人がいたはずだ。その人達は、この場所と消えた人々の存在を、物語の中に残そうとした。そしてこの場所を警告しようとした。だからこの町には神隠し伝説が多いんだ。
「そっかー。じゃあ、後で立ち入り禁止の看板でも立てとく?」
「そうだね。図工室を借りれるか、今度聞いてみるよ」
ようやく山を降りる。もう下校時刻だ。学校はもう閉まってるだろう。
「学校に荷物、いっぱい残してるのに」
「明日取ればいいじゃん」
メイは首を横に振る。
「水筒があるんだよ。飲みかけの」
「……大丈夫だよ、一日くらい。ほら、帰ろう。明日は原稿を書くのと、看板作りだよ」
「うん。また明日」
メイは、足の痛みに顔をしかめながら、駅の方へ向かっていった。少しだけ尾行する。良かった。ちゃんと電車に乗った。家に帰るつもりのようだ。
私も帰ろう。着替えて、ご飯を食べて、お風呂に入って、部屋に戻ろう。
それから、遺書を残そう。
メイは長生きする。してほしい。完全自殺なんて馬鹿げた夢を忘れて生きる。そう、信じたい。
でも、そんなの分からない。今夜、メイはまたあの地底湖に戻るかもしれない。あるいは明後日、それか明明後日。もしかすると、数ヶ月後かもしれないし、十年後か二十年後かもしれない。
その時に備えて、今日の出来事を、しっかり残しておく。重要でない箇所に嘘を混ぜた、フィクションの物語を書いておく。
いつか、私が死んだ時。私という存在が消滅した時。
この物語を見返した次の『私』は、いつどこで書いたんだっけと、首を傾げるに違いない。そして、なんか変なものが見つかったと喜び、部誌だか雑誌だかネットだかに公開するだろう。
私の存在は、フィクションの中だけになる。
物語の中なら、私は消滅しない。
そして、いつか、これを読んだ誰かが、あの山の地底湖から逃げるための手助けになることを願う。
死は避けられなくても、あの山の殺意には抗える。私はそう信じている。
※この作品はフィクションです。作中の舞台・登場人物は全て架空のものです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。